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理不尽な進化ともやもや問題

なんだか、何か、言いたいのだけれど、どこでどういったらいいのかわからないので、
ここに書いてみる。

10日ほど前に、書店で手にした一冊の本を買った。
「理不尽な進化 増刷新版 遺伝子と運のあいだ」 吉川浩満著
帯に、絶滅から「進化」をながめ、科学と人文知の原理を問いなおす!
とあって、このコロナ禍もあって、ひっかかったのだ。
私の語彙と、知識ではなかなか進まず、進んではみたけど完全に整理はついていかない…はあ、難しい。
のだが、なんとなく、残ったことはある。
進化論について書いているのだが、進化論の一般的受け取り方の誤謬、専門家たちの尽きせぬ論争を紹介して、
最後は「ヴィトゲンシュタインの壁」に突き当たる。
なんなんそれ?
 
『たとえ可能な科学の問いがすべて答えられとしても、生の問題はいぜんとしてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直観である。
  もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。』

と、ヴィトゲンシュタインの言葉を引いてみてもわからんのだが。
サイエンスで説明しきったとしても、アートの部分はどうにも割り切れない。
科学が分析しつくしても、人間はその分析では割り切れないことをするし、サイエンスだけを信じようとしないし、
世界はそんな分析の通りに進まず、時には理不尽に、運としか言いようのない非情な出来事に荒らされる。

てな感じに受け取った。

そこで、今、私がもやもやしている、演劇界のハラスメント問題。
※「ハラスメント」という言い方は、その後の記事を読んで他者が言っているもので、劇作家協会、谷さん、当事者の間では「ハラスメント」という認定はしていないそうです。
今回の出来事は、やはり、問題を分離して考えるべきだと思うのだ。

①出来事 劇作家協会主催で開催された、谷賢一さんが自作「福島三部作」のセリフを読むというワークショップで
 福島の放射能汚染の実態に関して、参加者と意見が食い違い、ワークショップの内容を離れた論争になった。
 3日間の日程の2日目に、出来事はあって、主宰側もあいだにはいり3日目も開催されたし、当事者も参加した。
 このワークショップは、その後数日間配信されたので、オンライン参加していなかった人たちも見ることができた。
②ワークショップ終了後 当事者から、劇作家協会へ「尊厳を傷つけられた」と訴える文書が届いた。
③劇作家協会が、「お詫びと再発防止に向けて」という文章を発表した。谷さんの名前は明らかにせず、
 講師から受講者への高圧的態度があったことを認めたうえ、
 当事者から指摘のあったワークショップという場の運営への反省も書かれたいた。
④谷賢一さん本人から、事情説明と、彼の福島に対する信念とその根拠を語る文章が発表された。
⑤これに関して、劇作家協会副会長 瀬戸山美咲さんが、劇作家協会の了承のないまま発表されたと発言。
 谷さんはきちんと了解を得たと反論。
⑥当事者の名前と、出来事の経緯を書いたの文章、劇作家協会へ送った文章も発表され、ごちゃごちゃしている現状。

〇出来事とそれに関して起こった論争の在り方は如何なるものだったのか?
  これはもう、当事者でないとわかりえないことだから想像するしかない。が、かなり激しい言い合いになったようで、
  事実、谷さんが高圧的ともとれる言い方をしたのだろうと思われる。が、谷さんも恫喝を受けたという事も言っており、
  一方的に相手を封じ込めたかどうかは定かでない。
  ここでの論争は「福島の放射能汚染」についてである。谷さんは何年にもわたる取材の結果、
 「福島の放射能汚染は、様々な研究と調査結果から、今や問題無いレベルである。
  根拠なくなんとなく危ないというようなことはとてつもなく危険な事である」と考えている。
  が、当事者は「放射能汚染がないなどということはありえない。それは東電や国を利する行為であり、
  演劇に関わる人がそのような考えを持っているなど信じられず、失望し、そのことを問いただしたが、
  そのような非科学的な考えは受け入れられないと尊厳を傷つけるような態度にでられた」という。

>ここに、先にあげた「理不尽な進化」で取り上げられてた、サイエンスと人間の問題があると思う。
 谷さんはサイエンスに基づいて、信念を持ち語っているが、その信念は、自分自身の育った地区への思い、 
 また、現地の人々の努力、苦悩、死、を実際の言葉で聞き、
 目にしてきた人間としての心情が作り上げているという側面もある。
 当事者は、放射能に関するデータは、国や東電による操作、御用学者と言われる権力に寄り添う層の作り上げたもので信じる気がない。
 国や東電に利するようなことは受け入れない。という信念を持った人らしい。
 そして、もう一つ、「演劇人、芸術家」は、
 自分と同じように反体制であるはずだと思っているらしい。
 バイアス脳。我々は誰でもバイアスがかかった脳を持っている。
 が、そのことを承知していれば、自分とは違うものの考え方も聞くことはできるはず…
 はずなのだが、そううまくはいかないのも人間だ。
 当事者の方は、参加されるに際し、谷さんの「福島三部作」のことも、
 谷さんのこともあまり知らず「反体制の主張がなされているに違いない」
 と考えていたと思われる。それで、よけいにバイアスの反射がきつくなったのだろう。
 とすれば、言葉も態度もそれなりになる…反応する側もそれなりになる。
 当事者の方が「若い子もいるのだから、そういう考え方もある。と自分の主張も取り上げるべきだった」と述べているが、
 だとしたら、「谷さんの様な受け取り方ができる研究結果もあるのですね」と認めるべきだったのだろう。
 話がそこへと向かわなかったという事実は、どちらが正しいのかという方向性に流れていったからだろう。
 そうしたい人がいたのだ。
 谷さんは、作者でもある。
 調査、聞き取り、データ解析をとことんやっての作品であるという自負がある。 
 自負バイアス。
 これが、他者の作品を取り上げていたのなら、そこまでいかなかったかもしれない。
 この点を考えると、劇作家協会はこの問題の繊細さを見誤ったと言えるのではないか。
 
 
〇ワークショップとは、どういうものであるのか?
  「講師」と「受講者」?「ファシリテーターと参加者」?
  劇作家協会の文章では「本来、ワークショップとは講師と受講者が対等な関係を結び、協働していく場」と書かれている。
  確かに、ワークショップは技術向上のためというより、参加者が体験を通して、発見と気づきを得る場だと思う。
  なので、参加者もワークショップを創造する人なのだ。講師は教える人ではなく、場を発見の場を用意し、場の活性化を促す人なのだ。
  劇作家協会のワークショップの捉え方が曖昧だったのだろう。  
  が、どうしても「先生と教えて貰う人」の構図になりがちなのは事実だ。

>これに関しては、劇作家協会、谷さん、そして当事者も方も、反省すべきではなかろうか。
 劇作家協会は、企画、運営に関して。初めてのオンライン開催で、出来事が起こった時の対処も、その後のフォローも曖昧で、
 アーカイブの配信をすべきかどうかの判断を怠った。
 谷さんも、ご自身が謝罪もしているが、高圧的な物言いがあった。
 自作の作品で、上演もしており、自身の中で固定された作品であったことで、
 ファシリテーターというより講師的な立ち位置に立ってしまっていたのかもしれない。
 それもあって柔軟な対応が出来なかった。
 当事者の方は、この作品が当然自分と同じ視点で書かれているはずと思いこんでいたこと。
 谷さんの考え方を認めなかったこと。
 谷さんは、そういう考え方があることは認めても、「何となく危険だから、福島のものは食べない」というような発信をする行為を否定しているのだが。

〇谷さんと瀬戸山さんの問題は、全く別。
>なぜ、二人のやり取りがこういうことになったかは、今後を見守るしかないと思う。

〇わかっていることは、事実(たどり着きえない)は情報を集めて自分なりに分析した自分の頭に出来上がった像しかなく、
 増えてくる情報で、形を変え続けていくしかない。
 そして、こういう事を見るたび「いやだなあ」と思うという事。
 なんて、情けないまとめでしょう。これが、私の頭。いつも「わからない」と思っている。

科学的事実とは別に、とうか、その科学的事実でさえ、人間の受け取り方次第で真実ではなくなる。
では、なにを真実とするのか?客観的真実はありうるのか?
しかも、科学的真実、サイエンスも更新される。歴史などはその典型で、歴史は常に書き換わっている。
歴史の分析は難しい。私たちは歴史を分析するにも、人間の記録を当てにする。人間の想像力を使うしかない。
そこにバイアスがかからないなどということがあるだろうか?
永遠に交わることの無い、事実認識。認識と言った時点で主観が関わるという事実。
「不条理な進化」を今手に取ったのは、運命だったのだ。と言ってしまう非科学。

そんなことが頭の中で回って忙しい。
はじめてこんなに長い文章書いたな。
お風呂入ってい寝よ。


  




# by futu-is-best | 2021-05-12 22:11 | 日記

なんかやらなきゃ病がでてきたよ。

前の記事が、去年のワークショップの振り返りだった。
コロナがうっすら日々の話題に上ってきてた時期で、ギリギリでなんとかやったのだった!
約一年ぶりの投稿です(笑)
おいおい!です。

最近考える事を書いていこうと思って、このブログを開けてみました。
来年度の予定についての調整や、
大学の授業のシラバスを書いたりしていて、
やっぱり、なんかやりたいなあと思うんですよね。

やりたいこと
1ヴォイスについて語りたい
2読解について語りたい
3「ワーニャ叔父さん」を読みたい
4「三人姉妹」を読みたい
5早い話がチェーホフ作品を読みたい
6ヴォイスと言葉を繋げたいので、「ヴォイスと読解」というワークショップをやりたい

ということは、「ヴォイスと読解」というテーマで何かやればよいという事だな。
うん。
ワークショップ?
まず、4回くらいのワークショップをやる。
継続して深堀りしたいメンバーがいたら、さらに続けてみる。
俳優のための勉強会というようなことかな。
そして、リーディング公演をやってみる。
舞台が出来たら、万々歳。

「三人姉妹」は何度か教材に使っているから、私としてはやりやすいけどな。
「かもめ」「桜の園」は隅々がまだ暗がりのまま。
「ワーニャ叔父さん」も、やっと読んだところだけど、これは笑えるはず。
「熊」とかもやってみたいな。
チェーホフをやると、他の作品に生かされる要素がいっぱい出てくるから
「ヴォイスと読解」の教材にはいいいんだよね。

月一回か二回。
ゆっくりとやる。
具体的なことを考えてみよう。
確定申告を早めに済ましてしまわなきゃな。

一年に一回のなんかやらなきゃ病です。

# by futu-is-best | 2021-02-15 15:34 | 表現すること

俳優のためのワークショップ 今更ながらまとめてみると…

林英世「俳優のためのワークショップ」を開催してから、
あまりに時間がたってしまいました。
確定申告やら、コロナやらで、あたふたしてました。
まとめておかなきゃと思いつつなかなかあわただしい日々で今になりました。
まとめというにはあまりに抽象的。
具体的な資料もなしではありますが。

2020年 2月17日~22日までの5日間
1部 13:00~17:00 身体へフォーカスする
2部 19:00 ~21:30 身体を使う
というテーマで行いました。
全日程フルコースでの参加者 5人
1部遠し参加 1人
2部遠し参加 2人
単日1~3日での参加  14人
と、多くの方々に参加していただけました。

1部では、道具としての自分の身体を知るということを考えました。
まず、私たちの身体構造を実感としてとらえるために、骨格をわかろうというところから始めました。
特に、関節の動き、可動域の確認、そして、それにまつわる筋肉の在り方。
自分の身体と、骨格標本や筋肉図とのつながりを感じてみると、身体の「動き」の感じ方が変わります。
オーケストラの楽器奏者は、自分の楽器を使いこなすでしょうし、使いこなせるように楽器と付き合うでしょうし、
とくに自分の楽器がどんな癖をもっているのかはあくしているでしょう。
俳優は自分の身体を把握しているか?
今に至るまでの人生の時間が、自分にどのような癖付けをしているのかに関心を持ってみる。

余分な力を抜いて、これから起こることに対応できる身体の状態を準備する。
エネルギーの通り道をしての身体を感じる。
無意識に起こる抵抗、恐怖、構え、思い込み、自分都合の判断。
音楽を使い、互いを使い、空間を使い、時間を使い、
身体の状態への感覚を磨いていく。
今、ここにあるエネルギーの動きと付き合うことを目指して。

パーソナルな在り方から、俳優として準備されたニュートラルポジションへ。
ニュートラルポジションに立つために、安易を意識してストレッチをするのか、立つのか、歩くのか。
身体が変わると、どんな変化があるのか。
身体という入り口から、あらゆる内面の働きへと繋がっていく感覚の網目を感じ、深める。
身体を変えながら、脳を、呼吸を、視覚を、聴覚を、触覚を、ニュートラルポジションへ。
次に起こることに素直に反応できる状態。受け入れ、働きかけることのできる状態。
他者とのあり方もニュートラルポジションへ。

2部では、用意された身体を使って、今、ここに力を働かせることを感じました。
自分を取り囲む空間すべてにあらゆる方向から、あらゆるやり方で最大限にアプローチする。
って、どんなこと?どれくらいエネルギーのいるもの?
本当に影響するためには、どれくらいのパワーと集中力と意識がいるの?
普段使わないところまで、自分のパワーの領域を広げていってみる。
とても大変。息が上がります。
100%でやるって?どこまでやれば100%?集中と緊張は違う?集中は精神論?
そんなことも、実はきちんと自分に問うてない日常だったりするわけで。
そして、他者と向かい合う。
今の自分の真実を見つめて、感じて、正直になって、相手に伝えて。
動かされ、動かし、何かを無から生み出していく。
「向かい合ってるつもり」「伝えているつもり」「聞いてるはず」「見ているはず」
今、瞬間瞬間、生々しく生まれだしていく演技を望むなら、知っておきたい本当の感覚。
言葉を使わないエチュードで、今という時間を身体で刻んでいく。
場と時間をエネルギーで満たすために、俳優がどれほどの内面を持たなければならないのか、
その内面がとどまることなく動いていくことを受け入れ、使い、影響を与え、影響を与えられる実感。
正解はなく、今の真実をつづっていく身体。
実感に満ちた俳優の身体。常に主体である身体。
マイムを通して知る、身体のアナログ性。
断絶のない身体の時間。
さて、そこに戯曲が入ってきたら…。
今回は、戯曲以前の準備のためのワークショップでしたが、
この戯曲以前の訓練が、土台となって、俳優は他者を生きていけるようになるのです。

ハードな5日間でした。
参加者の方がのご感想をまとめることもできなくて、
ワークショップの内容報告にもなっていないのですが、
やりたかったのは、俳優さんたちに、自分を磨く方向性を考えてもらいたいということ。
方法論や、参考になる本はたくさん出ています。
それを使って、私たちが何を鍛えるのかが大切なのだということ。
俳優にとって、訓練が必要なこと。
俳優という身体について、そして演劇(あるいはダンスやマイム、語りなどの表現一般も含む)という
再構成物とは、どのようなものなのかを考えることをおろそかにしないで挑み続けること。
今回はヴォイスまでは至らなかったので、いづれ、ヴォイスと、読解も考えてみたいと思っています。

ご参加くださった皆さん、ありがとうございました。






# by futu-is-best | 2020-03-07 12:20 | ワークショップ

頭を冷やす。遠目で見る。

知る権利。
知らせる義務。

知ったら、どうする?
知って、何を考える?

地点の問題を、あれからも少し考える。
もし、映演労連フリーユニオンがSNS上に、訴えを上げなかったら…。
話し合いをして、お互いの見解をすり合わせて、解決ラインを見つけて事は済んでいたのだな。
なぜ、SNS上に上げたんだろう?
そういう決まりでもあるのかな?
話し合いの過程で、看過できない事実が分かった場合は、また改めて判断しなければならないだろうけど。
よくよく考えると、発表する必要あったのかなとも思う。
とにかく、なんか、書いてしまったのでとても落ち着かない。
気持ち悪い。
もっと、グルグル頭の中で回し続ければよかった。と反省する。

私たちは、ちょっとしたことで思考が歪む。
感情が歪む。
判断が歪む。
心が歪む。
言葉が歪む。

私は歪んでいる。
生まれてこの方、様々に歪んできた。
バイアスがかかっている。

本当の事なんて、無いのかもしれない。
当事者同士が、すでに自分の本当しかわからないはず。
真実はもう、遠い。
正しさから遠ざかろう。
世界中で叫ばれる正しさから遠ざかろう。

近くで見すぎちゃだめだ。

# by futu-is-best | 2020-02-01 16:28

「地点」の無言について思ったこと

今日、地点が団体交渉の途中経過についての報告をホームページに出した。
facebookで、ちょっと、触れてみたことをもう少し考えてみたいと思う。
↓facebookで書いたこと
私は、今回の問題は三浦氏が弁解的な事を言わないのは真っ当な対応かなとおもいます。が、この、問題に全く触れないのは、訴えている女性を、無視していることだと思うんです。そこが一番納得できません。公になった何かしらの出来事を無視するのは、相手を、無視するのと変わらないのではないか。劇団として公開されたホームページを、運営している以上、何かしらのステイトメントは出すべきだと思います。真実がとうであるか、解決がどうなるのかは当事者同士でやればいいと思う。パワハラの定義以外のところに引っかかります。
ロームシアター館長就任以前からSNSに出てたんですよね。この問題が出てしまった時に、劇団を応援している人たちに対して、こういう問題が出ているが、劇団はちゃんと対応するし、劇団運営は変わらず継続していくのでと言うような表明はできなかったのか。その事もないのが分かりません。館長就任の問題についてはロームシアターがステイトメント出せばいいし、出しましたよね。地点の制作さんがTwitterに話し合いをしていますという旨あげていましたが、三浦氏及び劇団としてのものではないですね。しかも、時間的に遅い。私はそこが分からないんです。なぜなのか。いや、何故だったのか。引っかかるのはそこです。


私は、地点のお芝居を観たのは二回。三浦基氏とお会いしたこともない。
件の問題についても、ずいぶん遅れて知った。
特に詳しく調べたりもしなかった。
劇団の問題だと思ったから。
ただ、劇団も、三浦氏も公には何も言っていないという事には少し引っかかった。
まあ、何か言えば言うほど本質がぶれて行くだろうことは予測できるし、水掛け論を繰り返しても無為だろう。
地点を見るか、見ないかは私たちが決めればいいしな、と思っていた。

その後、三浦氏のロームシアター館長就任が決まって少し驚いた。
やはり、この時点でも、地点と三浦氏は一言もこの問題に触れていなかった。

訴えに対して、地点あるいは三浦氏の主張や、弁明、真相などを語る必要はないと思う。
それを始めると、相手方に触れなくてはならず、話し合いに余計な影響を及ぼすだろうから。
しかし、問題がネットに上がってしまった以上、多くの人が関心を持つし、演劇関係者は様々な影響について考えるだろう。
なにより、地点の芝居を応援し、楽しみにしている人たちは今後の公演活動について不安になるだろう。
その人たちに対して、「話し合いを進め、問題を明らかにし、解決していく。劇団の活動については変更なく進めていく」
という事をホームページに出すことは出来たろうと思うのだ。
事実、今回の途中経過報告では、何も言わなかった理由がはっきりと書かれている。
何故、今なのか。
三浦氏個人としては難しくとも、地点としては言えただろう。

何故、ロームシアター館長就任で問題が変わるのか、劇団の作品つくりを、主催者と劇団員がどのような関係性で作っていくのかは
自由と言えば自由だし、作品にその劇団の在り方が透けて見えるものだし、その価値は観客が判断し選択できる。
さっきも書いたように、嫌なら見なければいい。
しかし、ロームシアター館長が、三浦氏も言っているように「芸術監督」の役割も担うものであるとなると、
館長の芸術観はもちろん、社会性、価値観、組織運営の考え方は、劇場の在り方に大きく影響する。
新国立劇場が小川絵梨子氏になって、大きく運営が変わったように、
劇場の在り方、京都の、広くは関西の演劇に様々に影響を持つことになる役割なのだ。
三浦氏の適正をうんぬん言っているわけではない。私は三浦氏個人を知らない。
が、知らないからこそ、公になっているこの問題に公には触れないという態度が、
この問題を無視あるいは、ないものにしようとしている、ひいては訴えた女性の存在を無視しているように感じられて、
ありていに言うと、そういう態度をとる人に芸術監督を任せられるのかという思いが頭をかすめたというのが事実なのだ。
もう一つ、劇団として地点が無言であったことも、三浦氏という主宰と劇団という組織の独立が確保されているのかという疑問も浮かんだ。
演劇なんかやっていると、なにかと裏を読み取ろうとしてしまうので、お許し頂きたい。

話し合いはやがて決着するだろう。
その時、どういう風に発表されるのだろう。
途中経過を報告した以上、何かしらの報告はあるはず。

真実は藪の中。
もう、時間は戻らない。
人は同じものを同じ角度で見ていない。解釈の違い、感覚の違い、性格、タイミング…
様々に行き違いを生む要因はある。
ただ、どんな要因にしろ、なにかしら事は起こったのだ。
そのことについて、三浦氏がどのように考えるのか、どう区切りをつけるのか(責任問題を問うという事ではない)
私は待ちたいと思う。

今や、地方から直接海外へ、芝居が広がって行ける時代だ。
京都演劇界とか、関西演劇界とかそんなものがあるのか、必要なのか、むしろなくていいと考える人も多いだろう。
しかし、劇場は移動しない。
京都にある。関西にある。
劇場を通って、人が繋がり、広がり、演劇のネットは密度を増していく。
地域の人たちと繋がり、生活の中へ芸術が溶け込んでいく。
劇場は大事な場所だ。
だからこそ、多くの人が「言葉」を待っているのだと思う。





# by futu-is-best | 2020-01-29 17:58