発見していくのだ、稽古のたびに。

清流劇場「FATZER」の稽古は続いていおります。
稽古写真がアップされてます。ここから。
いろいろと、きつい毎日ですが、
発見がいっぱいあるので、やっぱり楽しいのです。
稽古場は、本当に楽しい。
難解だからこそ、わからないところがあるからこそ、
稽古をしていると発見することが多いのです。
是非、是非、見ていただきたい!


ドラマトゥルクをやってくれている、小野さんの言葉です。こんなお芝居です。↓

ドラマトゥルクを担当している清流劇場『FATZER』の本番まで、一月を切った。
未完の断片であるブレヒトの『ファッツァー』は、一貫性のある物語作品ではないため、しばしば「難解」と評される。だが、なし崩しに戦へと煽り立てられている今この時局ほど、本作を埋め尽くすささくれだった言葉の数々が、観る者の思考に理屈ぬきに突き刺さってくる状況はないんじゃないかと、つくづく思う。

私はちょっとした事情で子どもの頃から、生きているうちに戦争を経験する将来を刷り込まれていた。だから何が起きても他人事みたいに諦められるだろうと自分でも思っていた。
けれどもこの期におよんで、利己のためならどんなに見えすいた嘘も論理のすり替えも暴力の行使も辞さない為政者のやり口が、ますますあからさまに、なりふり構わぬようになっていくのを見たとき、腹の底で静かにしかしはっきりと、激しい怒りが燃えている自分を発見した。
世界の情勢に無頓着だという点においてわたしはあの政権をとやかく言えない。でも誇大妄想と欺瞞にまみれた連中の目論見や、それに追従する有象無象の打算的な態度が、人として誠も実も欠いていることは、きっぱり言い切れる。
わたしは黙ったまま死にたくない。知らないうちに人殺しに加担したくもない。本当は、富める者がますます富むために貧乏人が争い合うこのゲームを盤ごとひっくり返したい。

ただこの怒りは未熟なもの。
反射的かつ衝動的な嫌悪で、粗くて精錬されていない。このまま外に出しても、遠吠えか暴力にしかならないもので、それこそ思うつぼなのだ。
怒りは一度解体されなければならない。その源泉を、正当性を、向ける矛先を、腑分けしてよく見つめなければならない。そうして別の姿へ再統合された怒りこそが、本当の力をもつ。それが創造であるにせよ、破壊であるにせよ。

だから今、わたしの手元に『ファッツァー』があることは幸いだ。
作品の冒頭、無人の戦場に一本だけ残る半分になった木のそばで、ファッツァーはこう語る。
「俺はもう戦争なんかしない。
ここに来て、良かった。
俺は、この世界で三分間じっくり考えることの出来る場所にいる」。

わたしにとっては芸術が、その「半分になった木」なのだろう。わたしは『ファッツァー』と向き合いながら、自分の怒りについて考えることができる。
ブレヒトは劇中でああしろ、こうしろとは言わない。とにかく「状況」を見せるだけだ。「それでお前はどうなんだ?」とも問いかけない。問われたように思うなら、それは観客自身の内から湧き上がったものだ。

しかし、あまり悠長にもしていられない。じっさい、残された時間は「三分間」しかない。「あそこに木がまだ半分残っているが、」いくさの火が迫ってくれば「あれだって、なくなってしまわなければならない(なくなってしまうにちがいない)」。
だから「何もかもなくなって」しまうまえに、わたしはわたしの抵抗のすべを決断しなくてはならない。地中に深く潜り込むすべを。


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by futu-is-best | 2015-02-11 19:48