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「公」と「私」について考える

例の、東京都議会の一件を考える。

どちらも、私たち代表なのだ。
今の日本人のある種の形なのだ。
もちろん、全員とは言わないよ。
でも、なんか、あるんだよ、そういう感じがね、って気がする。

電車の中のあの光景。
スマホ、スマホ、スマホ。
化粧、食事、デカイ鞄肩担ぎ。おおきなデイバッグ知らん顔。
出口付近でくるくる回る自分の居場所確保人間。降りる人より乗る自分。
まつげ命。睡眠命。おしゃべり命。
私的空間持ち歩きの私たち。

「公私」の区別なしは、今やふつうの光景。
しかも、年齢の区別なし。
若いとか、年取ってるとか、関係ない。

なんだろうと思うのね。
これって、どういう意識構造の変化なのかしら、って。
とにかく、「公」の「わたくし」と、「私」の「わたくし」の線引きがないよね。
多分、かつてはあったんだと思うんだよね。
どちらも「わたくし」なのだよ。
けど、「公」と「私」の場面があって、ていうか、次元があって、
「わたくし」は「わたくし」として「公」と「私」を持っていたのだよ。
例えば、仕事の場面は「公」の「わたくし」
公共の場では「公」の「わたくし」
家では「私」の「わたくし」
ひとりになったら「私」の「わたくし」

「私」の「わたくし」を意識するのは難しいかな。
「公」の「わたくし」の意識があったというべきか。
なにかしら、意識すべきものがあったよ。

「公」の「わたくし」を持つことは、決して強制された「わたくし」や
嘘の「わたくし」を持つことではなく、
虚偽の自分というよなものではないのよ。
持つべきもの、大人として、持つべきもの。
ある意味、「大人」の「わたくし」、「社会人」である「わたくし」をもつことで、
これは、ちょっと、誇らしいようなものだったのではないかと思うのだよ。

それが、無いよね。
「公」には「公」の秩序と、節度があって、
その線が判断の頼りだったのに、
「公」が単純に「個」を押しつぶすものみたいな感性が蔓延して、
「個」と「私」がごっちゃになり、
「公」が侵食され、「私」が一番みたいな感性が育ってしまってる。

今回の一件も、双方とも、「公」の感性が鈍いと思う。
「私」で仕事しすぎ。
「公」としての緊張感と覚悟と責任感を持っていれば、
ヤジをちゃんと、自分の主張を更にアピールする手段に転化できたろうし、そうしようとしただろうし、
百歩譲って、「ヤジは議場の華」としたら、
もっと、センスのある、効果のあるヤジを飛ばしたろう。
と思うんだよね。

仕事のプロ意識が薄弱。
ていうか、自分のやってる仕事に対する本気度が低い。
つまりは「公」という感性が薄いのだと思う。

最初に言ったように、これが今の私たちなのだと思う。
私たちが、「公」と「私」をカッコよく使いこなす「わたくし」にならねば、
一件の当事者たちも、それを非難する私たちも、
いちゃもんと、いじめの繰り返しをしているに過ぎないのではなかろうか。

ていうか、「私」で仕事したら、それは「仕事」じゃないし。
「事」を起こし、「事」を成すためには、
それに関わる人が「公」でなければならないと思うんだよね。
でないと、私的な感性のぶつかり合いでは、一つの結果にたどり着けないでしょう。
「わたくし」で有り続ければいいと思う。
「わたくし」という「個」を大事にすればいいと思う。
「個」に誇りとプライドを持つために、
「わたくし」は「公」の部分をしっかり意識しなくてはならないのだと思う。

「わたくし」でありながら、「公」と「私」をちゃんと持つことはできる。
そういう感性を育てなくては。
そういう大人が増えなければ。
問題の本質を、もっと真剣に見つめたほうがいいと思う。
ジャーナリズムももはや「公」ならず。
コメンテーター言うに及ばず。

こういう機会に我が身をきちんと振り返るべきなのではなかろうかと思うのよね。






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by futu-is-best | 2014-06-25 23:29 | 日記

「殺風景」、どっぷり赤堀ワールド。

昨日、「殺風景」を観てきた。
久しぶりにドリちゃんにあった。
相変わらず、全力でぶつかる姿に圧倒されるというか、
思わず、心を入れなおしそうになる。
ていうか、入れ直せ!




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by futu-is-best | 2014-06-02 10:59 | 表現すること