カテゴリ:日記( 464 )

またしても、春…。

ナナに添い寝(ナナ的には迷惑かもしれないが)。
ていうか、一方的にナナのそばで寝させて頂く。

究極に眠いときは、ナナは、もう、私が触っていようと、話しかけようと、眠りに落ちていく。

見ていると、まぶたの筋肉が緩み、目の玉がひっくり返り、
耳は動くのを止め、
寝息が規則正しくなり、
手足がブルブルっと動き、
眠りが深まっていくのがわかる。

そして、グッと伸びをして、さらに筋肉が緩み、
顎が緩み、そろそろ、舌が出てきそうだ。

自分の腕に触れながら、無防備に手足を伸ばしてゆくナナを見ていると、
可愛くて仕方がない。

無防備でいてくれる何者かがいること…

芝居の稽古をしていると、
私と向き合っているときは、多少なりとも緊張している子が、
芝居の中に入って、無防備にその役に突撃していく姿を見ることがある。
そんな時、とても嬉しくなる。
私は怖くても、うるさくてもいいのだ。
嫌われてもいい。
でも、芝居の中に入れば、解放されて、返って自分らしくなる。
特別な自由を獲得している。

獲得した自由な時間を生き生きと生きている。

そんな姿を見るとき、本当に嬉しくなる。

自由を獲得するために、私とナナは時間をかけた。
探り合い、読み合い、耳を傾け、目を凝らし…。

そして、ナナは、多分どうというはっきりした理由などなく、
時々、一緒に散歩して欲しいと思い。
時々、腹の上で寝たい相手になり、
喉元を撫でてもらいたい相手になり、

私にとってナナは、
ナナに散歩に誘ってもらうと、嬉しい相手になり、
できるだけ一緒にいてあげたい相手になった。

ボタン一個では、なにも生まれない。

私たちはアナログでしか生きられない。

ナナが寝返りを打った。どんどん長くなる。
それが、とても嬉しいのだ。

金曜日には、ひまわり研究科の公演が始まる。
始まれば、終わる。
彼らとの時間も、一区切りになる。

これからに繋がる区切りとしましょ。ね。



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by futu-is-best | 2015-03-31 22:17 | 日記

ブレヒト~!

清流劇場、「FATZER」!
ほんまに、ええ加減して!ブレヒトさんよおおお!ってな感じです。
なんやねん!この多重感あふれる、世界は!
なんやわからん!
そう、なんやわからんのである。
が、それは逆に言うと、どうとでもわかれる!という事でもあるのだ。

どう、わかるのか!ということは、
君は何をどうわかってるのか、わからないのか?という事なのである。

何を、どう考えるのかをみんなで出し合って、
稽古は進んでいます。

今回も、戦いのような現場です。
おもしろいでのです。

お~い。ブレヒト~!ってな感じです。

頭痛めて、みんなで考えてます。
こういう作業が、おもしろい!

私は、FATZERの役をします。
男の人です。
でも、そんなことは問題じゃないのです。
私がやらねばならないのは、
なにか、物事の根底にある初期エネルギーみたいな何ものかなのだと思っています。

できるか?
やるのだ。
私なりに。

3月6日~8日 伊丹AI-HALLです。
是非!
http://seiryu-theater.jp/



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by futu-is-best | 2015-02-05 01:30 | 日記

新年でございます。

新年明けましておめでとうございます。

2014年は、ひとり語りで全国ツアーをやって、
秋には清流劇場に客演させてもらって、初めてのドイツ演劇、初めてのギリシャ悲劇をやらせてもらって、
俳優として新鮮な一年でした。

2015年もまた、新たな気持ちで新鮮にいきたいですね。
ま、毎年こんなこといってるんやけどね。

今年も、二つばかり客演が決まってます。
嬉しいことでございます。

やったことないことがいっぱい待ってます。
怖くはないです。
楽しみです。
こなしたくないです。
目標は「突き抜ける」。
なんか、「突き抜ける」。
今までやってきたことを総動員して、一ミリでも突き抜けたいと思いますねん。

51歳にもなると、
やって来たことをちゃんと、形にしていきたいし、
その形をみなさんへ見せていきたいと思いますね。
若い人たちに、ちゃんと見せていきたい。
それが、たいしたものでなくとも、
なんか、あるねんなと。

みなさまにとっても、新鮮な一年になりますよう。
いつもいつも新しい細胞が喜ぶような、一日一日を積み重ねていきたい。
今年もよろしくお願いします。
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by futu-is-best | 2015-01-02 12:16 | 日記

「ジャングル」と「フューリー」

日曜日に、南河内万歳一座の「ジャングル」を観た。
万歳のお芝居は私の活力源。
いつも始まりに戻してくれる。

芝居の始まり。
そしてそれは、社会への問かけの始まり。

なんだろう?なぜなんだろう?
なぜ、私たちはこんなところへ来てしまったんだろう?
そして、何処へ行くんだろう?

また今回も、頭ぐるぐる。

そして、火曜日、「フューリー」を観た。

徹底的に、戦場。
現場。
戦場。戦場。戦場。

ダメだ。
こんなことしてたら、ダメだ。
なんて、ダメなんだ。
と思う。
けど、今も、これと同じような映像がSNSで流れ続けている。

なんだろう?
なぜなんだろう?
私たちは何者なんだろう?
なにしてるんだろう?
と、人間であることが切なくなってくる。

戦争は、私たちの中に内在している何物かなのかな。
こんなに、愚かしいとわかっていても、途切れることなく続く。

グルグルグルグル、堂々巡りをして、
同じところに戻ってくる。
「ジャングル」

仲間を守る、家族を守る、
その幸せを維持する、
そのために自分を守る。

地球は人間のためにあるわけじゃない。
ある意味、不公平の塊だ。
その不公平をうまく、分かち合って共存しなくてはならないのだけれど、
そのことを成し遂げるには、
まだ、人類の歴史が「足りない」のか。

選挙に行かなきゃ。
でも、目先のことでは、判断できない。
政治家は今、目先のことしか語らない。
どう、選ぶ?
ああ、私にはまだわからないのだ。


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by futu-is-best | 2014-12-10 10:00 | 日記

寒い雨の日なので、振り返ってみる。

師走だ。
寒い。

年賀状とか、掃除とか、具体的なことはほったらかしであるが、
2015年の計画を立てたりしている。
2014年もあっという間に過ぎたもんなあと、いつものようにため息つく。

2014年を振り返ってみると、
あっという間だったが、
うおりさんで「カチカチ山」から始まって、
ひまわり研究科春公演をやり、
「桜の森の満開の下」全国ツアー(大阪、京都、東京、三重、仙台、札幌)をやり、
ABC文化祭に出て、
ドラマと方言のシンポジウムに出たり、
高校生にワークショップをしたりして、
夏は「らもフェス」やって、
また、うおりさんで「その木戸を通って」をやって、
八尾プリズムホールで初めてのひとり語りをやらせてもらい、
ひまわり研究科秋公演がやってきて、
清流劇場「IPHIGENIE」で、死ぬかと思い、
奇跡の体内時計を働かせ、打ち上げの次の日から
「おかあちゃん~小篠綾子物語」の方言指導に入り、
M-PADで三重三昧して、
再び、来年の清流劇場「ファッツアー」の読みが始まり、
12月にもう一つ、ひとり語りをやる。

あれれ、一年はちゃんとあった。

足りない足りないって言ってられないよな。
50代になって、もう、自分のやるべきことは絞られている。
逃げてはいられない。
新しい試みをしながら、自分の核を鍛え続けよう。
年明けは、茨城県土浦、百景社アトリエ祭り。
久々の川端康成「片腕」。
新鮮な気持ちで、また新たな一年を作り出そう。


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by futu-is-best | 2014-12-04 12:11 | 日記

若者よ、私の言うことは鵜呑みにするな。だが、小耳に挟んでおけ。

ご縁あって、
昨年、今年と、神戸女学院大学で、ゲストスピーカーとしてお話させてもらっている。
「プレゼンテーションの技法」
ま、私にプレゼンテーションを語ることなどできない。
意識して、プレゼンして成功したことがない。
結局、自分の仕事そのものがプレゼンであって、それ以上はできないし、
それでやってこれたことしかしてない。

ので、そんなことを話す。

劇団に入って、「クリーンナップは不動。お前はクリーンナップにはなれない」との宣言を受け、
そののち、自分の能力を磨くために、俳優の勉強をしたこと。
大学で、教職をとったものの、一回言ってやめたこと。
芝居にケリがつかず、長くやってきたから学べたこと。
入口を入ったら、出口が来るまでやってみる。
馬鹿だけど、意味あるんじゃないかと思うこと。

とりとめのない話になって、
なんか、まとまらず、ちょっぴり反省してたのだけれど、
何人かは、レポートを書いてくれて、
ちょっとでも、ひかかってくれた学生さんがいて、
彼女らが、今とこれからの自分のことと結ぶつけて考えてくれたので、
とても嬉しかった。

「人生は一度きり、やりたいことをやろう」という言葉は、簡単に言えるけど、
本当はそんなに簡単じゃない。

でも一度きりだから、真剣に向かい合ったほうがいいだろうと思う。

そんなことを、なんとかやりくりしてきた大人はちゃんと話しておかなきゃね。

無駄玉でいい、投げられるだけ、投げる。
それが、私にできることだからね。

しかし、もうちょっとまとまった話ができるようになりたいものだ。
いやほんまに。

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by futu-is-best | 2014-11-12 23:59 | 日記

大阪弁は綺麗やなあ。

今日は、玉造小劇店「おもてなし」を観劇。

なんていうか、ちょっと、なかなか見られない、
よくできた、老舗のお菓子みたいな作品でした。

船場の暮らし、風習、気質、人情、粋、
いやなとこ、ええとこ、いろいろあって、
船場言葉が綺麗で、

みやなおこさんが、しっとりと、しかし、気丈な女を見事に演じてかっこよく。
有馬くんも、いやにいい男で、見せてくれるし。
野田くんは、一言のセリフで笑わせてくれるし。

役者が大人で、
大人の役者がいてできる、
質の良いお芝居。

できる役者は素敵ですな。

こなれたお芝居でした。
美味しいお茶と一緒に味わいたいようなね。

ぜひ、東京の方々にも見ていただきたい!

http://tama-show.jpn.org/next/


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by futu-is-best | 2014-11-03 22:16 | 日記

可能性ある者たちとの格闘。土曜日の私。

また出ましね、仕事に対する覚悟のない議員。
映像見て、崩れ落ちたわ。
覚悟を持って、仕事を選んで、
誇りを持って、日帰り視察をした人とは到底思えんわ。
不正がなかったら、その旨、ちゃんと主張できるだろうし、
不正があったとして、彼にその不正を働く理由が、本当に自分のなし得たい仕事のために正当であるという信念があったなら、
ああいうことにはならないだろう。

やっぱ、変だよね。

なんか、すっごく根本的なところで、私たちの感性が狂ってる気がするね。

子供を教えている。
子供は素晴らしい。
むちゃくちゃだけど、
むちゃくちゃなところが素晴らしい。
そのむちゃくちゃなエネルギーを
なんとか、表現にむけられたらと思う。
自分の考えや、想いを表現できる大人になってもらいたい。

可能性は彼らにあるのだから。


人間がいなかったら、この地球はもっと平和に自然の摂理を全うしているのだろうにと考えて
いやしかし、この人間を生み出したものも自然摂理…
おっと、では、地球環境が破壊され、絶滅種が増えるのも、自然の整理?
じゃあ、滅んでゆくのが自然の摂理…

大人を見ていると、滅びを思う。
でも、やっぱり子供を見ていると、可能性を思うのだ。



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by futu-is-best | 2014-07-06 00:10 | 日記

「公」と「私」について考える

例の、東京都議会の一件を考える。

どちらも、私たち代表なのだ。
今の日本人のある種の形なのだ。
もちろん、全員とは言わないよ。
でも、なんか、あるんだよ、そういう感じがね、って気がする。

電車の中のあの光景。
スマホ、スマホ、スマホ。
化粧、食事、デカイ鞄肩担ぎ。おおきなデイバッグ知らん顔。
出口付近でくるくる回る自分の居場所確保人間。降りる人より乗る自分。
まつげ命。睡眠命。おしゃべり命。
私的空間持ち歩きの私たち。

「公私」の区別なしは、今やふつうの光景。
しかも、年齢の区別なし。
若いとか、年取ってるとか、関係ない。

なんだろうと思うのね。
これって、どういう意識構造の変化なのかしら、って。
とにかく、「公」の「わたくし」と、「私」の「わたくし」の線引きがないよね。
多分、かつてはあったんだと思うんだよね。
どちらも「わたくし」なのだよ。
けど、「公」と「私」の場面があって、ていうか、次元があって、
「わたくし」は「わたくし」として「公」と「私」を持っていたのだよ。
例えば、仕事の場面は「公」の「わたくし」
公共の場では「公」の「わたくし」
家では「私」の「わたくし」
ひとりになったら「私」の「わたくし」

「私」の「わたくし」を意識するのは難しいかな。
「公」の「わたくし」の意識があったというべきか。
なにかしら、意識すべきものがあったよ。

「公」の「わたくし」を持つことは、決して強制された「わたくし」や
嘘の「わたくし」を持つことではなく、
虚偽の自分というよなものではないのよ。
持つべきもの、大人として、持つべきもの。
ある意味、「大人」の「わたくし」、「社会人」である「わたくし」をもつことで、
これは、ちょっと、誇らしいようなものだったのではないかと思うのだよ。

それが、無いよね。
「公」には「公」の秩序と、節度があって、
その線が判断の頼りだったのに、
「公」が単純に「個」を押しつぶすものみたいな感性が蔓延して、
「個」と「私」がごっちゃになり、
「公」が侵食され、「私」が一番みたいな感性が育ってしまってる。

今回の一件も、双方とも、「公」の感性が鈍いと思う。
「私」で仕事しすぎ。
「公」としての緊張感と覚悟と責任感を持っていれば、
ヤジをちゃんと、自分の主張を更にアピールする手段に転化できたろうし、そうしようとしただろうし、
百歩譲って、「ヤジは議場の華」としたら、
もっと、センスのある、効果のあるヤジを飛ばしたろう。
と思うんだよね。

仕事のプロ意識が薄弱。
ていうか、自分のやってる仕事に対する本気度が低い。
つまりは「公」という感性が薄いのだと思う。

最初に言ったように、これが今の私たちなのだと思う。
私たちが、「公」と「私」をカッコよく使いこなす「わたくし」にならねば、
一件の当事者たちも、それを非難する私たちも、
いちゃもんと、いじめの繰り返しをしているに過ぎないのではなかろうか。

ていうか、「私」で仕事したら、それは「仕事」じゃないし。
「事」を起こし、「事」を成すためには、
それに関わる人が「公」でなければならないと思うんだよね。
でないと、私的な感性のぶつかり合いでは、一つの結果にたどり着けないでしょう。
「わたくし」で有り続ければいいと思う。
「わたくし」という「個」を大事にすればいいと思う。
「個」に誇りとプライドを持つために、
「わたくし」は「公」の部分をしっかり意識しなくてはならないのだと思う。

「わたくし」でありながら、「公」と「私」をちゃんと持つことはできる。
そういう感性を育てなくては。
そういう大人が増えなければ。
問題の本質を、もっと真剣に見つめたほうがいいと思う。
ジャーナリズムももはや「公」ならず。
コメンテーター言うに及ばず。

こういう機会に我が身をきちんと振り返るべきなのではなかろうかと思うのよね。






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by futu-is-best | 2014-06-25 23:29 | 日記

えーっと、私の子供時代のこと

先日、ツイッターで、西加奈子著「円卓」を読んで、

西加奈子著「円卓」を読む。母親に「あんたを子供と思ったことないわ」と言わしめ、父親に「あいつになんかいうと怖い」と言わしめた子供であった私は、痛く共感。わからないことだらけだったなあと思う。「孤高の人」が私の頭の中にあった言葉。石太やぽっさんや、姉ちゃんがいたら違ってたのかな

と書いた。
私の母が、「自分の子供と思ったことがない」というわけではなく、
私の父が、「3歳児の私を恐れていたわけではない」

母曰く、「1歳にもなれば、人の手を煩わせることなく食べ、泣きもせず、文句も言わず、
     小学生にもなれば、外で怪我しても自分で赤チンつけて、そのまままた走ってでいてく、
     なんて、可愛げのない子供だろう、と思った」ということで、
父にすれば「怖い」というより「うるさい」ので、本当に怖いと思ったのは「中学以上」になってからだと思う。

みんな、そうだったんだろう。
誰でも世界と初めて出会い、
何かしらと折り合いを付け、
上手くやり過ごす方法を見つけていくだろう。
子供はしたたかなのだ。
したたかにできたなければ、生きていけない。

その、折り合いを付ける場所が違うのかなと思う。

私の妹と母は、「そんなん私もそうやった、けど、それはそういうもんやと思わなしゃあないやん!適当にやっといたらええねん。」という。
「だからそうしてきた」と。

だが、私は「しゃあないとして、なんで、そこで折り合いをつければいいのかわからんのや」と思う。
「そうせなしんどいやん」と妹と母は言う。
私は「そうした方が私にはしんどい」と言う。
「だから、みんなが折り合いつけてる点と別の折り合いのつけ方を探さなあかんかったんや」
「皆が、折り合いつけられるところで、折り合いつけられないということがしんどかった。が、
そこで折り合いつけようとすると、気が変になりそうになる。自分の折り合いがつくところをさがさねばならなかった。
たとえ、それが人様から見ると、しんどくて、きつくて、無意味に思えても、私には、そうしないほうが、しんどかったのだから」

「そんなもんやん」と思えて、そうできたなら、そうしたらいい。
そうできないから、皆が思う、「普通」の道から外れていく。
それも、人の普通だろう。

「私やったらこうする」と言われても、私はあなたじゃないのだ。
「私はこうやけど、あんたはそうなんや。そうやったら、こうした方がええんちゃう」
そんな言葉をもらえていたら、私の人生は変わったのだろうかと思うこともあるが、
そんなことを言える大人はそうそういない。
だから子供は、あがいて、あがいて、自分の道を探すのだ。
傷なんて、直る。
傷ついたところは、皮膚が分厚くなって、強くなるねん!

そんなことを、今更、私たちに語らせるとは…西加奈子、恐るべし!

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by futu-is-best | 2014-05-30 21:36 | 日記